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8月, 2024の投稿を表示しています

haiku0105

  二百十日もううんざりの猛雨なり 今日は立春から二百十日目。稲の開花期で、颱風が通過する頃と古くから伝わる。Shanshanが発生して一週間経った。しとしとならまだしも、苛烈な早番の秋霖である。九州付近からの遅遅とした蹌蹌踉踉たる動きは父もそろそろ耐えきれない様に候。(父は創作です) 兎も角、全国で瘴雨に対する遣る瀬無さが氾濫せんとしている。 或る市長が逼迫した災害対策の場で「台風が近づくとなぜか高揚する」と発言した。市民の怨嗟が堰を切った。この心理現象を取り上げるに少し言葉が足りなかったと思われる。同時に倭人特有の不安による神経症が顔を見せている。 天変地異の抜き差しならぬ虞に対して心が奮い立つのは自然な情理だ。学童の頃に経験するのも衆多の記憶に留まる所である。果たしてこの反応を幼児性の析出と擯拆すべきだろうか。迫り来る危機に際して自らの内なる神威を伸張するのは、注意力を高め、蛟の顎門を逃れ、絶望的な現況から一縷の希望を探し出す効用が強い。批判の御所望の如く風水害の真っ只中で被害者に心を砕き抑鬱状態になると、救える命が指の間をすり抜けてしまう。 畢竟、「場違いながら、台風の前に高揚するのは小学生の時分からでありますが、この励起された心を推進力として、今は救える命、守れる生活を取り零さないよう精励恪勤していく所存であります。危機が過ぎ去り余裕が出来たら、直ちにこの不謹慎な心地を鎮めて犠牲者を弔い大いに反省しましょう」みたいに諄諄敷衍すれば滓肚 の使徒(シトのシト)を封殺できただろう。 _/_/_/_/_/ 演説構成の仕事もあっているかもしれない。責任は地震雷火事山親爺程に恐ろしいが。金にリスクが釣り合っているだろうか。明哲保身。誰も文責なぞ取りたくないのだ。暗箭傷人に向かう矢来は厭に決まっている。 老子17章から澆期の政治は民が侮ると抜き出されるが、その侮りこそが将来の暗雲を招来しているのではないだろうか。今一度考慮する時かもしれない。 Candy is dandy, but liquor is quicker. と聞くが糖と酒に靠れた現代の諸相は誰の仕業か。 お気持ち表明致すと社会問題許り書きたくない。サフォりそう(I feel almost suffocated)。サボりたい。言葉遊びを麻薬として凌いでいる。T5はT7に退行する。真面目腐った面々の間で不器用な

haiku0104

  長田なる秕貫きてし稲光 美しい田圃に或る夜落雷があった。稲が駄目にならないか心配したが、有難い事に豊作だった。神々が過酷な暮し向きの水呑みを不憫に思し召して、禾穀がたわわに稔る様に稲妻を遣わしたのかもしれない。ところで、長田(田圃の美称)は永田と同音であるし、しひなの字には秕政の熟語もある。雷を主神の怒りの象徴とした神話もある。当て擦る意図が無いではない。 文民は文字の獄を恐れざるを得ない。同義語、同音語を使ったり、譬えたりして糾弾するのが筆耕硯田の常ではある。時に権力者は寛容でないばかりか、揶揄の存在しない文脈を断罪してしまうことも。更に、試験で不合格になるだけならまだしも、一族郎党お縄になるなんて珍事中夭は歴史書を繙けば枚挙に遑がない。 民主主義も世界平和も多様性も詮ずる所正義の暴走を食い止める為の道樞が必須だ。敵と認識しない事、敵でも許せる事が要諦だ。先ず鯫生が譲歩致すべきだろう。憂国の士に天啓が与えられんことを祈ると云う句意としてお読みになって下さい、政治屋の諸先生方。失敬、右手人差し指が伸びてしまいました。

haiku0103

  鈴虫の秀歌は濫竽充数か 合唱や合奏は余程の音痴でない限り目立たない。曲が終われば構成員全体にうっすらと好意を抱く。アイドルグループが人気なのも頷ける。お見合いでも何か共同制作を発表する場を初めに設けるのがいいかもしれない。心が解れて初対面の緊張も緩和できる。 勿論、プロフェッショナルであればこうはいかない。一人一人を厳密に審査しなければ不誠実だ。ハイソなイメージだけで飯を食ってる奴は、客も然るべき層に限られるだろう。歴史に名を残したいのならば考えざるべからざるなり。

haiku0102

  鼾雷に拍手喝采聒聒児 字面がこの上なく豪快に囂豗である。実際は乙夜から広漢和を繙いて深更に至った時の様子を素描した。混沌の曲 が止み、がちゃがちゃが囃し立てる。当然鈴虫に陶然とする夜もあるが、今回は轡虫の低音が耳に留まった。先ず同居人の睡眠時無呼吸症候群を心配すべきだが。 近年の八月は残暑ではない。真夏日が途絶える季節がいつになるのか見通しが立たない。陰暦七月の異名、流火に熱の印象が雑ざるのは列島が度を失っている証拠だろう。夜着を退けるより余儀無い。初秋の俳句が夜霧籠って眼前にも脳裏にも、また胸中にも全く過らないので、幾弱り果てているこの頃。もう一度歳時記を読み込もうか。

senryu0014

  クレペリン課する人事は脳不足 内面の分析で態々非言語的な方法を取るのは、問診の意図を察知されないようにする為だ。対策本が流布する頃にはその効力は無いに等しいであろう。であるにも関わらず、未だに30分かかる内田クレペリン検査に拘泥するのは如何なものか。人材に投資せずに旧時代の遺物(弊習)に搾取されているのは企業として健全とは評し難い。これくらいの鮮烈な箴言が機能することを願ってやまない。 机上の空論ではあるが、弊社での実施を想定する。どんな成績や態度の求職者を迎え入れれば良いだろうか。僻案を開陳すると、計算用紙として別に白紙を一枚渡し、記名して貰って試験後に回収するのが御の字ではないかと思う。綺麗な落書きを描いた者や、読書をしていた方、連絡のあった欠席者の報告を受け、優先的に次の選考に回そうと考える。赤錠剤と白錠剤を服用する大人(うし)と仕事を致さん。とはいえ列子の楊朱篇に、呑舟の魚は枝流に游がず、鴻鵠高く飛びて汚地に集まらずとある。半時間の懲役を敢行しないに如くはない。 経済界重鎮の手沢の選抜法が、ホランドコード(RIASEC)に於けるE;企業的やC;慣習的の適性を見ているのは理解している。鯁諤仕るが、暗算珠算素因数分解よりも遥かに意味を見出せない営みだろう。十迄の百マス計算とさえ天淵月鼈。一桁の加算に長時間集中するのは小学一年生だけで沢山。穴を掘って埋める作業は運動になる分鼻差で優れる。 抑これ位は表計算に任せられる。自動計算ファイルを作る速さと美しさを競わせた方が有益なのは火を見るよりも明らかだ。if-thenの思考と表記が出来るかも炙り出せる。画像認識技術で魅せる臥龍鳳雛もいるかもしれない。自作ソフトの提出があれば、その進取性を大いに買いたい。多様性に配慮した検定実施に向けての補助アプリを紹介、制作する博愛強記も見逃せない。豈に一饋十起せざるべけんや。 巷間に溢れる雑駁な心理テストは批判的に捉える態度もないと、諸子百家が槍玉に挙げた占いよりも有害だ。性格診断ジプシーが申し上げるではないと誚讓されそうだがな。 _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ 尚鯫生のこの六角形モデルはAI>R>>>C>S>Eとなった。Eは皆無だ。余談だが評価軸の方向を見ていなかった為に真逆の結果が出たので慌ててやり直した。 話が飛躍するが

haiku0101

  秋の苑噓吐きの種埋めにけり 加州に自生するキク科の植物に tidytips がある。学名  Layia 属の数種にあたる。加州雛菊の別名もある。野性味があると評する人もいるが、白い縁の黄色の花でそこまで印象には残らない気がする。 陋見ではあるが、英語圏の人が名付けた学名ではないとの直観がある。あまりにも響きが悪いからだ。日本人でさえ知っている lier の単語と音が近すぎる。 joke で庭にこれが咲いていたとして、次のような会話を取り上げるかもしれない。 What a beautiful flower! / Thank you. / By the way, I've heard something bad with you. You aren't a lier, are you? / Maybe not. (or Sometimes. It depends. etc.)  これが人名だった時には噓吐きじゃないか逐一確認され、そのたびにはぐらかさなければならない。七面倒だ。ラ行やLが澄んだ印象を与えるからと云って、なんでも採用していい訳ではない。 _/_/_/_/_/ これは ふと目に留まった名前から 思いついた句だ。漢字も人名には普段使わない字と全く不可解な訓だった。 馴染みのない漢字の方は蘐園を尊崇していた(か詩経を読み込んでいた)のだろうと思いを馳せることは可能だ。だが、訓は戴けない 。動詞の語幹だけを読ませることは良く云って変則かと。 連体形 連用形を使わねばならない。アッキーナの場合、四段動詞明くの 連体形 連用形アキの読みを適用する。ディズニーの雪の女王の妹の如くには呼ばないのである。アとだけ読ませたいならば音読みを採用するのが適切だったろう。 鯫生だったら中学を卒業する頃には違和感に気付き、役場に届け出たかもしれない。 教育格差が広がる中 一個人を責めるのは酷だし、 容喙すべきでないのは承知しているが、残念乍ら、名付け親の(所謂教養ではなく)学習到達度を厳しく見積もらざるを得ない。 無意識に差別と取ってしまう音はどうしても存在する。日本人にとっては例えば、仏蘭西の大学入試や博奕の一種目、喀麦隆の或る民族などは突然の罵声のように聞こえてしまうかもしれない 。避けざるべからざるなり。 前置詞の感覚と理論が摑めない故の不自然な拙文を謝罪し

haiku0100

M君を偲ぶ 夜学子の六年前のプロフィール 夜学子の子は子供の意味では無い。遊子(旅人)、舟子(船頭)等が辞書に載っている。 (恐らく)輪禍に遭い夭逝した渠のSNSのプロフィールを見たら当時の儘残っていた。閉明塞聡していたので訃報を知ったのは最近だった。無常迅速を痛感した。憎めない人だった。手談に興じていた時に、名人揮毫の扇子を左手で素早く小刻みに動かしていた、半袖の白い開襟の渠が印象に残っている。豹変を刮目して見たものだ。木鐸に成り得た人だったと思う。今は北斗や南斗と烏鷺の争いをしているのだろうか。積もる話はあるが、個人情報に繋がるので控えておく。 渠が亡くなった実感がない。現実を生きなかった鯫生への罰だろう。遅ればせながらご冥福をお祈りします。

haiku0099

  別れ烏切子硝子のみ共鳴り 切子硝子は重言と云えなくもないが韻の為に許して頂きたい。唐突なネガキャンを試みる。切子細工は子供との関係を切ると読めるので、親子やそれに近い人に贈る品としては相応しくない。無論ただの言葉遊びなのでマナー講師は本気にしないで戴きたい。 硝子製品は身の回りに溢れているけれども、別れ鴉の惆悵たる声に共振するのは手に持った切子の杯だけだった。自身の手が顫えていたかもしれない。 鵶は社会的な動物で、巣立っても家厳家慈を忘れないらしい。反哺の孝や慈鳥抔の語もある。でも、均質でない群れを作る生き物ならば、引き籠り問題をがなり立てる個体もいるかもしれない。ヒステリーを起こして(根性の同義語の脳幹を絶対視する)某ヨットスクールに愚息を売り込む憃母もあったりして。最も人間臭い鳥として親近感も嫌悪感も湧く。

tanka0005

  家の借景遠からず閨竇の群れの入るらし鶏頭花惜し 劇場版コナンの犯行動機に背山起楼があったが、斯様な建物には切歯扼腕せざるを得ない。焚琴煮鶴の所業を馬耳東風とする没分暁漢が増え過ぎである。抑、人口密度が高すぎる。今更ユニバース25を持ち出すのも月並みだが、余裕が無いのは過密が原因に違いない。円顱方趾は金属の稠密構造のようにはいかないのだ。 燕雀相賀を喜ぶのは吝かではないが、喬木故家ではない(固より蝸廬は借景を取れる程ではない)ものの昔の長閑さを知る者として、また愛月撤灯を厭わない偏執狂の一人としては、家が並ぶのはどうしても冤家路窄を想起せざるを免れない。金があれば黒澤監督みたいに住家を壊すのだが。愛すべき隣人がいらっしゃるの狐福 を願っている時点でどうしようもない人格なのかもしれない。自分から愛される努力を怠っている。泉石高校(膏肓)出身者には如何ともし難い。またしても群れに対する忌避感(藁)。 鯫生は電脳で話す内容を実社会に持ち出したいのである。そんな人は求むべくもないが、夢想してしまう。鳳穴いずくにかある。意識高い(系の)文芸俱楽部か俳句結社かオフ会抔がございましたら教えてください。難しい言葉で駄弁る会あれかし。録音して文字起こしして会報として頒布すれば生産的に見えなくもないかもしれない。

haiku0098

  灰の処暑丁重に思ふ敗余の孤 丁重が唐突だと思った人は感覚が鋭い。口に馴染むと感じた人は漢詩の暗唱を頑張った人かもしれない。処処啼鳥を聞くのもじり。 八月は何かと戦争が思い出される。後半になっても鬱積した気が晴れることなく纏わる。処暑とは名ばかりでギラギラした日が続くが、灰色に見えてしまった。玉音放送を聞いて暮らし向きが良くなるかもしれないと希望を持った人もいるだろうが、戦中以上の泥犂が待っていたのではないか。法や倫理を守れば餓死するし、金が一寸あったところで焼け石に水。糊口を凌ぐこともできなかった。特に鰥寡孤独の無告の民はどれほど孤独死しただろうか。 飲鴆止渇を続けていたら、屠肆に行っても文字通りの鬱肉漏脯しか置いていないような、否、あるだけましという未来が待っているような気がしてならない。今から社会全体で食母を貴ぶようにしなければならない。農業への苛斂誅求を止めるしかない。陶朱猗頓にはさらなる負担をお願いするしかない。これ以上の慈善事業は無いのだから受けてくれると嬉しいのだが。金があったら万人養うための仕組みを作って出資したい。杜甫が広廈万間を夢見たように。

tanka0004

  縫包みぶしょったく着て流光にえ飛下りざりしパパゲーノなり 折句:勿忘。N'oubliez pas. (ヌブリエパ)  ヌブリュエパになっている。許し給え。 ぶしょったいは不格好、だらしないさま。流光は水面に反射する月や星の影。パパゲーノは こちらの句 をご覧ください。ラ行やパ行から始まる和語が全くないので折句の時には大いに悩まされる。 縫い包みと云っても三十万円以上する本格的なものではなくて、顔出しのキャラ物や動物物のプレタポルテです。数千円だが、どう考えても贅沢品なので敢えてこう云いました。 世間ではお泊り会に着ていくのが一般的らしい。そんな人がいるわけもなく家で寂しく着ていた時期があった。一度そのままで深夜の街を裸足で徘徊したことがある。縫い包みを着たままなら大海原の向こうへ泳いでいけると本気で信じていた。(マリオのカエルスーツやペンギンスーツみたいに) 結局海まで辿り着かなかったが、目隠しをして歩いたにも関わらず何故事故に遭わなかったのか今でもわからない。入院(≠進学)の数日前の事だった。 精神が壊れた時の事を書くと狂っていたことがよく分かる。恐ろしい。

haiku0097

  滑り草膝傷むる子殄きぬめり 滑り草で調べると、何故か滑り莧が出てくる。スベリヒユは食べられるが、ヌメリグサは稲科の雑草だ。葉を揉むと滑りが出ることによる命名だ。 夏休みに遊んでいた時によく見た名も知らぬ雑草の一つだ。あのぬめぬめは傷口に塗った膏薬を思い出す。我ながら杜撰な感性だとは思うが。膝小僧を擦り剝いた時の消毒液の沁みも蘇る。現在の外気温では外遊びが出来ないと云われるが、何とかならない物か。車の排音よりも子供の歓声を聞きたいものだ。抑、滑り草も見なくなってしまった。懐古厨の独語は此処迄。 現代は外遊びがし辛くなったが、益々本や情報が手に入りやすくなってきた。一緒に本を読む時間を設ければ昔より遥かに豊かな子が育つかもしれない。昔の方が良かったとは言い切れないものがある。また、ごみを取っておいて箱庭遊びの材料にしてやるのもいいかもしれない。氷菓の蓋とか。

senryu0013

  誰の手に雷騰雲奔の元本 金についてこの熟語を使っていいのかは分からない。近頃の乱高下を見ていると大変だなと思う、と他人事ではいられない。この青蚨を偸む政府を青天白日の下に知らしめなくてはならない。美し国などと自称するような荒瘠の国土を防衛するよりも、先ず国帑を守るべきだ。現在の日本円は勤労と兌換可能とは云えない。実態に合わない円安株高はさっさと是正し貧しい生活を受け入れて、世界の金融市場からの注目を外さなければならない。日陵月替は世の常なので耳が止まること(耻)ではない。 物言う株主は金と口しかないので天香国色(peony)と呼ぶことにする。花言葉は恥。正しく渠等、妄誕の牡丹が企業等の生産性を落としているのだ。 昔の二時間電視劇の捨て台詞で「お前は俺の財布だよ。さ、い、ふ」というのを覚えている。汎球的に半永久的にこれを云われっぱなしという国辱を認識し、貧しい中から資本の鉄網に絡めとられない価値を創造したい。競売が終われば自分の作品を繊切りにするくらいの気概が欲しい。 _/_/_/_/_/ 帑の異体字は伖である。人の友と書く。信の異体字は訫である。心の言葉と書く。

haiku0096

  涼新た摩踵放頂のランナー 馬拉松を観戦した。巴里五輪の道程は廿五粁辺りに丘が置かれていた。下りの最大斜度は百分の十三(七度超)との解説には耳を疑わざるを得なかった。上り下りの後で十粁走らなければならなかったのも試練だったと思う。踵を磨り減らして頭に至るまで体全体を酷使して一秒を競う様は感動を呼ぶのだろうなと感じた。 摩頂放踵とは孟子が墨子を評した言葉に由来する(孟子尽心上)。兼愛を押し広める渠は人の為なら頭を磨り減らして踵に至るまで力を尽くしたと云っている。この前には楊朱を一毛不抜と書き、後には子莫を中道(≠中庸)だと記した。(三者のいずれかでなく)量体裁衣が良い、相手の長所を殺さないからだとこの部分を纏めている。 この語を知ってから孟子を読みたいと思った。渠の胡散臭い馬拉松演説を敬遠していたが、尽心篇は箴言集なので厭きないかもしれない。 _/_/_/_/_/ 馬拉松演説や外交を武勇伝かのように使っている人がいるが、本来は冗長なのを非難する言葉だ。演説馬拉松とは云うらしいが紛らわしい。本物の坊主はお嫌いになるだろうが、演説行脚と呼ばせて戴くのが良いと思われる。 現在は外国の本を買うのは難しく(= unaffordable)、国内の創作は買い叩かれている。(情報端末もだが) 100円程度の円高に誘導して知の流動性と健全性を高めて欲しい。それが汎球化じゃないのだろうか。(個人的には本当は70円位にして欲しい) 互聯網で閲覧できるものはそうするが。

haiku0095

  無垢の娘のシーシャの如き槿哉 助詞、助動詞が漢字なのは気分と見て呉の問題。縦書きだと機能美を味わえるかもしれない。 槿は鰈である; 朝鮮=槿域∩朝鮮=鰈域 ⇒ 槿域=鰈域 ⇒ 槿=鰈 □ 勿論冗句です。 水莨でも烟碱(尼古丁)や一酸化炭素を吸っている事には変わりないので止めたらいいと思う。でも、何故かお洒落に見えてしまう。ターバンのおっさんが吸っているのが本来の絵だが、これも異国情緒を搔き立てる。涼しげにも感じる。硝子瓶の煙の揺蕩は何時迄も見ていられる。 青い油漏(油土圭; oil timer)も見ていられる。子供の前に置くとじっと見詰めているので、子育ての隙間時間を作れるらしい。鯫生も若い頃はこれを気に入っていた。久しぶりにひっくり返してみたが空気が入っていて、正常に作動しなかった。無念。大手百円均一で扱っていると聞いた。店に行ってみたが、近所には売っていなかった。遺憾だ。

haiku0094

  施火烈し猋風を塞く妙法は 盂蘭盆会に一句も投稿しないのは不信心なので捻った。燥吻が何とか働いてくれた。 五山送り火を見ると篝火(bonfire)を焚いているのは分かるが旋風が吹いたらどうするのだろうか。距離を置いて火床を設えても火㸅が飛ぶことはある。煙草の吸殻でも山火事の原因になるので、あれで延焼しないのは不思議だ。豪雨をも貫く紅蓮が魔炎とならないのは偏に精霊や祖霊のお陰だろうか。まあ抑、八月の盆地には強風が起こり難いが。巧みな套套(タウタウ,異体字:㚐㚐,=方法)があるのか。 洛中の方の仰るに五山送り火を大文字の火と申すのはよくないとのことらしい。五音に収まるのは大文字と施火だけだったのでこちらを取った。送り火は東から順に灯す。大文字、妙法、舟形、左大文字、鳥居形と五分間隔で点火する。実はこの句の中七下五にはこれが隠れている。風は凡(風を孕む帆)+虫(蛇や竜)なので舟のsymboleが想起される。塞には鳥居の形が紛れ込んでいる。妙法はそのまま。大文字は犬が三つだが許して欲しい。三つ目の大は北焙を見渡す寝転ぶ人ということで一つ。茗肆で北焙を啜り乍ら見るのも一興か。 _/_/_/_/_/ 套套を互聯網上で調べると避孕套(=避妊用具)が出てきて毒気に当てられた。検索履歴が穢された。已にご覧になってしまった人には謝る必要がある。申し訳ない。 逆に茗肆を(中国語で)画像検索すると何故かもふもふが見られる。荒んだ心が癒された。茗肆茶多酚さんという絵師の作品らしい。良いものを見せて貰った。謝謝! 北焙を(中国語で)検索窓に入れると重慶市北碚区の緑豊かな風景が画面に広がる。気が晴れる写真だ。

haiku0093

  敗戦忌残響室より回向せむ 忌が季語の十分の一を占めると云っても過言ではないだろう。何たる点鬼簿か。変換されないので忌避BSで打ち込んでいる。日本語変換は機能不全に陥っているので簡単で特徴的な読みの二字熟語を覚えておくとよい。そのためにも弊博客(blog)は役に立つと思われる。 残響室効果(echo chamber effect)から抜け出す第一歩はこの言葉を知ることだろう。互聯網(因特網, Internet)の残響や泡沫から距離を置くには単語を知るしかない。この場末にいらっしゃった方々に対して、鯫生は責任をもって情泡(漢語では過濾気泡; filter bubble)を提供している。互聯網でも平談俗語を使っていたら万劫末代まで無明長夜を冥行擿埴することになる。 智蔵瘝在 の世の中だから身の振り方を考えなくてはならない。どの情報に依存するのか意識的になった方が良い。 ......人工知能と四字熟語について駄弁りました。 こちらから

tanka0003

  淺からぬ雲箋を読み濺濺と盞盈す餞暑なりけり センセンは(1)水のはやく流れるさま。また、水のたぎり流れる音の形容(2)涙の流れるさま。センセンを盃に液体を注ぐ様子として使っていいのかは謎。実際に満たすものは酒ではなくて玄酒か博士茶(rooibos)。残暑でなくて餞暑を使うと暑さへの贐になっているような気がする。 電気通信の記録は意外と長く保存されない。このブログも18箇月活動が無いと削除される設定になっている。SNSや通信アプリも大して遡れない。とすると、このような短期記録に振り回されるのは嫌気がさしてくる。電子メールならまだしもメッセージツールのやり取りは多分小説にはならない。味気無過ぎる。でも鯫生は蠅頭細字で乱筆、風流に云うと狂草勝ちで寸楮はまともに読めないと思われるので手紙は出さない。句帳の字もそれは読めたものではない。

haiku0092

  棧橋を雲牋来る餞暑かな 残暑の頃になると村の外へと通じる唯一の桟橋に霧が立つ。朝霧を抜けて残暑見舞いの入った郵袋を負った配達員がやってくる。 センショは陰暦七月の異名でもある。残暑と同じ意味。いつもの言葉遊びでした。 お手紙 拝読しましたのお手紙にあたる言葉を陳ねておく。次の(1)と(2)の漢字の二字熟語だ。(1)尊敬を意味する修飾語(2)手紙、書簡、筆記用具、声を意味する語。具体的には以下の通り。他には各自見つけてほしい。 (1)貴御恩尊台芳華花玉朶雲瓊           (2)書簡尺牘墨翰箋音楮報帛札状紙便 これを使って手紙の書き出しと結びで暗号を作れそう。乱数表を対応させればかなりの情報がやり取りできそうだ。欧米の間諜の書簡は本文の前後に無機質な英数字が並ぶのだろうが、漢字なら粋なことが出来そう。こんなスパイものや探偵ものがあったら教えてください。

haiku0091

  アラフォーのシャバ僧の読む棚経よ アラフォー(=40代前半)もシャバい小僧(=冴えないパンピー)と同じように消えていく言葉だとは思う。 韻辞典を探すと日本語で初めて韻を踏んだ人達の品の悪さが滲み出ている単語が見つかる。一応シャバいと云う代わりに娑婆染みたとか、娑婆擦れしたとかすれば通じると愚考する。この不良ラッパーどもめ! どうも僧侶に敬意を払えない。求道者としての姿を見ないからだろう。経を諳んじる必要はないし、CDを流すだけでも良い気がする。分不相応な厚葬だ。働き方改革を進めるべきだ。葬式も年忌も棚経も施餓鬼も要らないので寺の費用を削減したい。位牌も遺骨も冷土荒堆も断捨離したい。死後の世界は無いのだから。少なくとも、金を少々払ったくらいでかっこいい名乗りが出来ると云うのはまやかしだろう。地獄の沙汰も金次第は宗教家が噤むべき言葉の一つだろう。死んで漸く極楽や涅槃への手引きをするなど遅すぎる。残暑の中ご足労有難うくらいは云ってやってもいいが。

haiku0090

  蟷螂の腹切蟻の集りけり 蟷螂の腹が切れていて悶えていた。そこに群蟻附羶していた。溘焉として逝かんとする命に敬意を払えないものなのだなと漫ろに感じた。 仏語のformidableは凄いやawesomeと同じような変遷の語だが、これを見るたびに蟻(fourmi)が迫ってくるような恐ろしさを覚える。軍隊蟻を思い出すからか。とにかくmyrmecophobiaをどうにかしたい。蟻の一匹一匹には恐怖がないのだが。これも群れに対する忌避感が根柢にあるのだろうか。

haiku0089

  霹靂(かみとけ)の闢く八月の穭田 靊霳や霹靂や雷霆と書くと強そうに見えて、稲妻(夫)と書くと靭やかに感じる。雷を表す語は主に夏の季語であるが、稲妻は初秋の季語だ。 穭田は稲刈りが終わった後の株からほっそりとした茎が生えているのがぽつぽつと見える田圃のこと。当然羊の群れが居座っている訳ではない。櫱の生命力に満ちた印象とは逆に、瀟殺たる情景が見える。 再生二期作が最近は盛んになってきているらしい。巨人が雷霆の鋤や鍬を振り下ろし土に力を注入しているような映像が浮かんだ。そうして、余孼から新たな命が育まれる気がする。伝統的な稲妻の解釈を見直す時期になったのかもしれない。 靊霳にはついでに秕政を鋤蹶斬断して欲しい。

haiku0088

  綾取りの紐の影なる爆心地 FOMA(Freedom Of Mobile multimedia Access)が2025年度に完全終了してしまうと聞くと寂しい。ところで、この強引なacronymに実は密かに驚いていると同時に執念を感じる。 鯫生はボコノン教に改宗しようか迷っている。foma (harmless untruths)を生きているからだ。ヴォネガットの小説、猫のゆりかご Cat's Cradle の最初にこんな文が引用してある。 Live by the foma that makes you brave and kind and healthy and happy. 西洋の諸宗教と比べると仏教は大概これに当て嵌まりそうなものだが、戦争中に軍人禅を説いた愚騃がいたことはいつまでも記憶に留めるべきだろう。中世の鼷共(=売僧)もだが。 また、原爆開発者の応答として次の対話も載っている。 Science has now known sin. -- What is sin? 有能な男による無慈悲な綾取りの結果がこの酸鼻の極みである。 ただ、日本の最近の環境破壊を見れば、欧米よりも科学の功罪を認識しているとは到底云えない。基督教を知らなくても原罪の意識は人類で分担したほうが良さそうだ。 _/_/_/_/_/ 長崎の式典に三箇国が招待されず、六箇国と一地域が聯合抵制した。平和はfomaだろうか。

haiku0087

苦瓜は徒の火宅の業厄か 苦瓜は仲秋、陽暦十月と書いてあるが、市場に出回り始めたので詠んだ。(ゴーヤ苦瓜てふ洒落) 豊かな味蕾が舌の上に広がっていた子供の頃には、飢えても認めないと誓ったものだ。時が経って好物の一つになっているのは不思議だ。甘い農産物ばかりに需要が集中するが、味が無ければ調味料を掛ければ良いのでは。尤も油や乾酪等は物価高で手が届かなくなっているには違いないが。音読みの問題で芋粥がうしゅくて困ると覚えたものだ。玉砕よりも甎全を選び、䤔䣸(センゼン)(U+4914,48F8)の食べ物を旨く頂く心や方法があれば海路の日和があるかもしれない。 仏蘭西では苦いものを食べてアメーぐっ(amer)と云うそうな。お後が宜しいようで。

haiku0086

  両輪は空を走つて秋に入る BMXのバックフリップ(後方宙返り)が沁みたので。バックフリップの音が好きなので使ってみたかったが、いまいちな出来で没にした。五輪は自転車、スケボー、スノボー、スキーのフリースタイルをよく見る。個人的には、パークやスロープスタイルが好きだ。ただ、その感覚に憧れるのではなくて理念に同化したい気持ちが強いので、実際に体を動かすことはないと思う。危険だし。それ以外ではカーリングはぼーっと見ていられる。スケートのマススタートも興味深い。あとはSteeplechaseも。そういえばCWのSteepleChaserを楽しんだのを思い出した。悪路を整備して街で抜き去る爽快感に浸ったものだ。障害物競走という訳は味気ないので、原野競走なんてどうだろうか。鐘楼を目指して郊外を駆ける雰囲気が出ていると思う。 The sport of steeplechasing was originated by hunting men who raced their hunters over natural country from 'point to point' or from one steeple to the next. (OSD from a weblog, unedited)

haiku0085

青紫蘇の葉脈一本秋隣 残りけりとしていたのだが、鳧アレルギーが発症した為に却下した。青紫蘇を食み進めると葉脈だけ残った。それだけ。秋隣にしたら葉脈を隔ててそこに秋があるような気もするし、螇蚸(精霊飛蝗)が已に生まれているのを予感できる気もする。 _/_/_/_/_/ 良い経歴の人材に螇蚸が集る。

haiku0084

  樵径の燋槁せし草の蟭螟 この猛暑で樵の通う小道も草木が枯れてしまうだろう。そんな草の上に焦点を合わせるとひょっとしたらセウメイの存在が証明されるかもしれない。蚊の睫毛に棲む虫で列子湯問に記されている。ところで、そんな所に棲む虫があるならば、葉脈の上にもまた別の虫がいるのではないか。どんな名前を付けたらいいだろうか。

haiku0083

怕痒樹先天性の余情者 猿滑と先手と寄せで句を作った。ただそれだけ。猿滑でどんどん自陣が削減されるのを見ると暗澹たる心地になるが、計算を丹念にしておけばそんなことはない。否、やはり悔しい。 発達障害者には共感する能力が無いと云う偏見がある。実際には人は自分とは違う存在には共感できないだけのことだ。則ち定型発達症候群の人が発達障害者に共感できないのと同じように、発達障害者が定型発達症候群の人に共感できないというだけのことだ。同じ属性の人の境遇には共感できることが検証の結果分かった。 共感の範囲を広げる必要があるが、体験したことしかわからないものだ。だからこそ、文を読まねばならない。何処にそんなものがあるか。それは自分で見つけなければならない。そして、見つけたら大々的に知らせることがあってはならない。asylumなのだから。 鯫生はASDではないが、内向的ではある。一応渠等を理解できる心算でいる。寧ろ定型発達症候群患者がわからない。これは明確な差別である。ただ、多数派は少しは差別されたらいいと思う。 魔女りてぃ。 半島人、大陸人が調子に乗って法を犯すから風紀が乱れるとは聞くが、日本人がとは聞かない。障碍者が病人がとは聞くが会社人(企業人)がとは聞かない。差別は確実にある。

haiku0082

油然と膏腴の地には雲の峰 あぶらと読むのは油以外は全て肉月の部首の字だ。!kjiで或る頁に飛べるが、!Bang検索ができない。頁内に検索窓が二つあるからだろう。ともかく、そこであぶらと検索すると十個くらい出てくる。それぞれの熟語を比べてみるのも一興だ。 イウゼンは(1)草などの勢いのさかんなさま(2)雲などの盛んに湧き起こるさま(3)意にとめぬさま。気にかけずゆったりしているさま(4)感情の湧き起こるさまなどの意味がある。カウユのチは要するに穀倉地帯のこと。 何事にも油然と対するようになってからは、心が塞がることが無くなった。時折哀しみの念が油然と感じられるが、それも薄くなってきたように思われる。薬を増やし過ぎたのか感情を司る神経が麻痺してきたのかは分からない。生きる喜びと苦しみを分かち合える人がいたらとは思う。

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  市境の自転車を青田風吹き二つの夕の時鐘鳴るなり 五時の鐘が特に不気味で殆困っている。隣町の鐘も入院時に散々聞かされたが、不安を煽る曲調だった。二重に響いて不協和が耳に入って居ても立っても居られなくなった。自転車で風と一体になって走っていた快感が一瞬で吹き飛んだ。 本当は 日本画のの歌 でも午後五時の音と書きたかったのだが、この同報無線からの時鐘が入り込むと都てが台無しになるのではないかという懸念が払拭できなかったので止めてしまった。 時間通りに事が進まないと苛苛する人はある程度いる。でも、不意の待ち時間には辞書や本に目を通す機会を得たと思って楽しむことにしている。酷暑や極寒の中待たされるのは耐えられないが、そうでさえなければ案外何とかなる。昏ければ星空を見るか眠ればいいのだ。 8月3日追記: しざかいという読みが一般的でないのでいつか書き直すかもしれない。

haiku0081

  蝲蛄や阿闍梨が握る独鈷利し あじゃりと読むのが普通だが、ここではあざりと読むと韻が合う。 とっこまたは独鈷杵は仏具の一種。煩悩を砕くという。その形から、僧侶の間では鰹節の隠語にもなっている。ということは、肉食していたと非難することもできなくもないが......。 独鈷でザリガニを突いたら楽しそうだと思う。子供たちが遊んでいる所に高僧が混ざって一緒にちょんちょん触っていたら面白い。仏具をそんなことに使うなと大人は怒るかもしれないが、煩悩の根源を砕いていると解釈することもできる。則ち子供時代に満足な遊びが出来たら青年期以降の悩みを乗り越える足しになるかもしれないということだ。飾りとして佩びているだけよりも遥かに有意義だと思う。 今度は殺生や苛めに繋がるのではないかと云う反駁もありそうなので触れておく。そういう時はザリガニを優しく突けばいいのだ。押しつけがましく怒りを込めて仰る自称保護者よりも、将来言うことを聞くようになるかもしれない。その時に教えればよい。大体が、遊びの中の暴力性をその子の本性だとするのは性急な判断の可能性が高い。ゆっくり育てばいいのだ。 (アメリカザリガニが殖えすぎているのでちょっと食べてもいいかもしれない。泥抜きはした方がよさそうだ) 蝲蛄を阿闍梨が握る独鈷もて の方が意味が伝わるかもしれない。(突きたしを省略して) でも、捌くと連想することも可能だからどうすればいいのか。どっちでもよさそうだ。