haiku0105

 

二百十日もううんざりの猛雨なり


今日は立春から二百十日目。稲の開花期で、颱風が通過する頃と古くから伝わる。Shanshanが発生して一週間経った。しとしとならまだしも、苛烈な早番の秋霖である。九州付近からの遅遅とした蹌蹌踉踉たる動きは父もそろそろ耐えきれない様に候。(父は創作です) 兎も角、全国で瘴雨に対する遣る瀬無さが氾濫せんとしている。

或る市長が逼迫した災害対策の場で「台風が近づくとなぜか高揚する」と発言した。市民の怨嗟が堰を切った。この心理現象を取り上げるに少し言葉が足りなかったと思われる。同時に倭人特有の不安による神経症が顔を見せている。

天変地異の抜き差しならぬ虞に対して心が奮い立つのは自然な情理だ。学童の頃に経験するのも衆多の記憶に留まる所である。果たしてこの反応を幼児性の析出と擯拆すべきだろうか。迫り来る危機に際して自らの内なる神威を伸張するのは、注意力を高め、蛟の顎門を逃れ、絶望的な現況から一縷の希望を探し出す効用が強い。批判の御所望の如く風水害の真っ只中で被害者に心を砕き抑鬱状態になると、救える命が指の間をすり抜けてしまう。

畢竟、「場違いながら、台風の前に高揚するのは小学生の時分からでありますが、この励起された心を推進力として、今は救える命、守れる生活を取り零さないよう精励恪勤していく所存であります。危機が過ぎ去り余裕が出来たら、直ちにこの不謹慎な心地を鎮めて犠牲者を弔い大いに反省しましょう」みたいに諄諄敷衍すれば滓肚の使徒(シトのシト)を封殺できただろう。

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演説構成の仕事もあっているかもしれない。責任は地震雷火事山親爺程に恐ろしいが。金にリスクが釣り合っているだろうか。明哲保身。誰も文責なぞ取りたくないのだ。暗箭傷人に向かう矢来は厭に決まっている。老子17章から澆期の政治は民が侮ると抜き出されるが、その侮りこそが将来の暗雲を招来しているのではないだろうか。今一度考慮する時かもしれない。

Candy is dandy, but liquor is quicker. と聞くが糖と酒に靠れた現代の諸相は誰の仕業か。

お気持ち表明致すと社会問題許り書きたくない。サフォりそう(I feel almost suffocated)。サボりたい。言葉遊びを麻薬として凌いでいる。T5はT7に退行する。真面目腐った面々の間で不器用な洒落の披瀝者や基地外の機知が云いたくなる(←)論客は「傍観者」かもしれない。(知的に見せようとする痴的な人々に関わるのは非常に窮屈な思いをする。端的に纏めると話が詰まらない)

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