博物館経営 霧消する国帑は河川 治まらぬそれ故貸せん 幼き声を響かせん 無償ならずは知の寡占 歴史博物館は治水の知恵も循環型社会の模範も保存しているのだが。自然史博物館は海進と洪水の記録を保存しているのだが。知的財産の継承を忘れて見せ物に走ると碌な事にならない。温故知新は偶然による所が大きい。情報を整理し乍ら再発見を待つ余裕が最早社会には無いのだろう。此の声も所詮ナイーブと切捨てられるだろう。 美術館について書こうとしたが、既に鯫生は語る資格を失っている気がする。若し許されるならば、未知に出会う場であって欲しいと思う。興行的に価値の無い鄰人に触れる場であって欲しい。其の為には豪華な建物と画一的な専門教育の必要性に疑問がある。排除アートの産物でない長椅子や四阿がある公園の方が面白い。精神医療費を圧縮する効用もある。元々が集団療法の場であった筈なのだ。 _/_/_/_/_/ 何か求むる心街へ放つ。 低脳と蔑まれ南井十に遊ばれている気がする。最近は自分の直情径行な面が目立つのでその評も致し方ない。自制が利かない。関係妄想であって欲しいが、否、それも困る。 それこそ清秋の燕子故さらに飛飛である。当然元の句の故は依然としての意味である。杜甫に妄想や柳巷との関わりがあったとは思えないし、聯を形成する信宿漁人還泛泛を鑑みれば、「また」と「もとより」の対比の方が収まりが良いだろう。