haiku0181

 

年の瀬の神棚遂に墜ちにけり


土台が不安定で傾いでいた。土台このまま年を越せないだろうとは思っていた。先日終に落ちた。それを月に二回程度は保全している愚厳が芝居がかった調子で騒いでいた。社が分解したので網上で図表を探して再構成した。その途中、十文字に組んだ木材の元の場所が不明だった。千切れた組木の名は千木と呼ぶらしい。窪みが彫ってあったので嵌めた。しかし、普通千木を飾った棟木は建屋の天辺に固定する筈なのに何故か裏側に釘打ちしてあった。曰くつきなのだろうかと怖くなった。

祭壇を毀損するとは罰当たりで凶兆だとする妄断臆解が根深い。それなら空中楼閣に揺頭擺尾しなければ良い。手入れのしやすい書院造の棚の上に安置しその前に正座してお参りしてはと提案。案の定、梯子に上って整備致すのに意味があると仰った。梯子と姑婆は置き所が無いが、もっと人口に膾炙した言い回しに年寄りと仏壇は置き所が無いとあったのを思い出した。空の紙袋になる前に撤去して頂きとう存じます。

祠や厨子を設えない事で害を蒙るのは世人の噂による。信仰の絶対的な自由を憲法に明記して無神論者を逮捕する国もある。(鯫生は汎神論者だと表明しておくし、神は精神と解釈しておく) 集合的無意識が呪術的に傷つけるという前世紀の精神科医の表現も理に適ってはいるが、新しい宗教観に過ぎないのかもしれない。兎も角、神仏の作用は全くないとは断定しないが殆ど無視できる程度だ。社会を支える個々人とそれを包む大自然とが億倍の影響力を持つ。儀式の形骸に慊慊として尋問火刑迄を唆す者こそがサタンに左袒し神を討たん(迂誕)とする異端者だと嗟嘆しておく。まあ、容喙するだけの駑才も大概だが。

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若し踏み絵を強いられたならば躊躇しない。偶像に縋る程度の信仰心は依頼心を伴う。依頼心は船頭が無いか多すぎる船を沖に流す。そんな脆弱さは敬虔とは程遠い。福袋を買わされて満足していないだろうか。ましてや買櫝還珠になっていないか。そう自省する切欠と捉える。有象無象が楽羊啜子と同一視しようとも考え続けるだけだ。固より態々口に出す気はないがね。そして、遂初するのみだ。

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年内は宣伝します。別館1,統合・退行線と其の垂直二等分線

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