haiku0183
極まりて哀情多き御歓楽
(御)歓楽は新年の季語で病気の忌み詞。新型呼吸器感染症が猖獗を極めた当時に書き留めた句で篤くなった人を労るものだ。ただ、外出を控えるよう促していたのにも関わらず、昼はオフィス街、夜は歓楽街に繰り出した愚か者を揶揄する意味も込めている。勿論一番責めるべきは曖昧な政令と私立自粛警察だが。
ここからは疫病みとは関係ない。漢武帝の秋風辞の結句に、歓楽極兮哀情多。少壮幾時兮奈老何。とある。(哀情多の語順は韻と強意の為の倒置だろう) この騒体は相対的な感情の波を表現している。兮字を含む啓示と取れるかもしれない。喜びの総体は増えているはずなのに悲しみが割り込む。極大の前後を積分すると(値域全てが正の時は)増加が続くが、微分すると(値域に関係なく)正から負へとy軸を横切る。自然の摂理だ。絶対の勝者でさえ瀟洒に亢竜有悔を詠うのだ。だからこそ過当競争に勝とうとせずに早退してしまった方が良い。そんな気がする。人は動物だが、植物のように分解者のように生きる者もいなければ資源が枯渇する。どうせなら、日の光、大地の恵み、穏やかな雨風を受けて文化を育みたいと個人的な指針を述べてみた。上手く纏まらない。
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或る物事から感じ取れる幸福の総量は頭打ちになる。だから、幸福であり続けたいのならば新たな合成関数を作らなければならない。これはT7的価値観かもしれない。
潮の満ち引きは複雑な曲線だが、単純に換言すると数多の正弦波の合成関数である。厳密には異なるが、凡そは宇宙のあらゆる円運動の影響の集積と言える。
正弦波の軸をy=0から単純増加関数に出来たらよいのだが。それは確固たる価値観だろうか。時の波に抗えない気はするが。
I stand amid the roar/ Of a surf-tormented shore,/ And I hold within my hand/ Grains of the golden sand —/ How few! yet how they creep/ Through my fingers to the deep,/ While I weep — while I weep!/ O God! Can I not grasp/ Them with a tighter clasp?/ O God! can I not save/ One from the pitiless wave?/ Is all that we see or seem/ But a dream within a dream? (A Dream within a Dream by E.A.P.)
第一聯は此の第二聯と比べる迄もないので載せない。興味のある方のみ調べられたし。
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