haiku0174
命を知る米人ありき雪の宿
雪国の我が家に旅人を泊めた。礼儀正しくて天命を知っているかと思う程よくできた人だった。そんな意味。
実際には漢字教育士のメイヤー氏の著書 My Favorite KANJI Book 54頁を見ての句。質素な昔ながらの日本家屋、煎餅の雪の宿みたいな雰囲気の(とは言え屋根はあんなに大きくないが)荒家で十米四方程の広さのが描いてあった。屋根を初めの三画、窓を口、入り口を節旁に見立てて命の漢字を表現していた。その窓には夫婦が語らう影が映っていた。絵に添えた偈が秀逸だった。質素な暮し。侘び住まいに、荊釵布裙と、心配もなく、諍いもなく(下線部は押韻)と云った訳か。美しかった。百聞は一見に如かずなのでぜひ贖ってやってくだせえ。
漢字学にこびりつく権威主義を打破せんと数多の勇士が挑んだ。しかし、渠等もまた廟に祭られてしまった。見た儘を描き留めた彼の米国人も崇められつつある。T6の悪癖だ。考えるでも比較するでもなく朧気に覚えるだけしかできない。残念乍ら人工知能や機械に淘汰されて然るべきだ。(毎度の群れに対する忌避感) 鯫生は絶対にそうはならない。拝まないし拝ませない。群れない事、それが天命のようだ。
_/_/_/_/_/
[追記1216]
重箱の隅をつついて申し訳ないが、命の意味する所の全集合をP、生活の意味する所の全集合をQ、Lifeの意味する所の全集合をLと置くと、(P∧L)∨(Q∧L)=φと云える。序でに抑がP∨Q=φである。日本語で具体的に要約すると、命の意味と生活の意味は完全に別のものであり、命の一字だけでは生活の意味を表すことはできないし、生活にも命という意味は含まない。だから命の一漢字との関連性に於いて偈には問題が無い訳ではない。飽く迄頁内の繫がりに関する語法についての指摘で詩自体の語法の正誤及び味わいとは独立しているが念のために指摘しておく。
コメント
コメントを投稿