senryu0030

 

多様性次の言葉を早うせえ


言葉で差別語にならない物はない。玄覧を滌除して、能く疵無からんかとの常の問いかけが必須である。

昔、学生に支那をどうして廃したのかと尋ねられ、答えられなかった大人がいた。不幸にも全国紙に顚末が載ってしまった。論理は無いが兎も角駄目だと答えた人はいたのだろうが、欧米の諸語で china と綴るのに、また、東シナ海なる海域があるのにどうして使わないのか考えた経験が無かったのだろう。現在、この語を漢字で入力するのは抵抗がある(つまり直接変換できない)。シナが悪い表現と言わんばかりである。品川方面の(則ち品行方正とは似て非なる)SFJ気質の勝利と評せざるを得ない。

「多様性」自体が子供の遊びに取り入れられているとも聞いた。えんがちょ的なノリでタヨーセーと唱えながら追っかけたりタッチしたりするそうだ。愛葉楊児は微笑ましい。ただ、周囲の成人が鵞鳥の鳴き声(duckspeak)みたいに連呼するだけに留まっていないか多少の疑念を挟む余地はあるかもしれない。

言葉のインフレや、希釈した、時には欺瞞混じりの情報の氾濫を憂いていた詩人がまた一人亡くなられた。言葉を大切にするのはその背後に人が生きているからだ。人生を刹那に消費するだけのサプリメントとしてしまってよいのだろうか。鯫生は談志師匠の如きを弾指に弾指する男子には断じてなる気はない。この文が冒瀆と云われようとも。

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品川駅構内レインボーロードの通勤風景に対する「1 9 8 4」の四文字のコメントへの反応に驚いた。1984年はもっと希望に満ち溢れていたのでこれは印象操作ではないかと陰謀論を持ち出して指摘している人がいた。多分ネタでやっているのだろうが、一抹の不安が過った。 orwellian を英語の辞書で引いてはどうだろうか。

オーウェル氏が政治と英語に文章の心得六箇条を記した。冗長な表現が多い doubleplusungood writer の鯫生には身に沁みる。実際控えめに述べてがっかりした (disappointing to say the least) なんて書かれた事もあったし。

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