senryu0028

 

エッセンをどう得る今日樹海へ行こう


食い物をどのように手に入れたらいいか。今日は不死の樹海に行ってみたい気がしてきた。自殺の為ではない。営みを見詰める為である。生の精華とは何だろうか。自問自答している。

エッセン(essen)は独逸語で食べる。近代の学生が使った語だ。仏蘭西気触れはボナペティ(美味しそうですね)の後の行為をマンジェ(manger;動詞の原形)と呼ぶ。牛驥同皁の皁(飼葉桶)を英語でメインジャ(manger)と表記するのを見て膝を打った覚えがある。schau essen(i.e. [to] show [and] eat)なる気取った食品が視界に入ると、食っていくのがショービジネス化しているように思えてしまう。ブランドはちゃう、エッセンスじゃない。そう呟いた。ごてあらぽーは偶に戴きたくなる。米久は家計に優しい。一番安いのはギョースーだが、あそこが寡占すると阿漕になりそうで警戒している。抑脂っぽくて受け付けない。(関係ないが御殿場高原ビールの宣伝を垂れ流しにしたくなってきた。北の星空を自然なコーラスと共に届けたあのCMだ。)

物名はПрофессор Доуэль(発音と格変化が分からない)。昔早川SF全集を読み漁っていた時に邂逅したが強烈に脳裏に染み付いている。時々夢に出てくる。ドウエル教授は首になってからも研究の助けをしていたが、胃瘻と中心静脈点滴はただ鞏固に縛られるだけだ。誰も来ない終末を、慰労のない最晩年を過ごす。時々の介護士や看護師、医者は遺漏なきよう機械と薬剤と体位とを操作するだけ。OTやPTなどには匙を投げられる。血縁は今日も来ない。惨い。小説よりも奇なりとは畢竟社会崩壊の跫音なのかもしれない。戦かざるべからざるなり。これは鞏鞏とすべからざる些事なのだろうか。戦戦恐恐たる現実よ。

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目食耳食の徒が多すぎる。くっきー!氏の目に目刺の絵や耳に蛸の図はそれを風刺しているんじゃないかと勘繰ってしまいます。粒粒辛苦に思いを馳せるのが良識だろう。一枚の煎餅をも卑しむ勿れ。尸位素餐は聯袂辞職して欲しい。まあ、目の中の梁に気付かぬ鯫生が申しても仕方ないか。

ソーセージは殆ど食べない。(音が紛らわしいが当然楽羊啜子の類ではない。) 近くに安い屠肆があるからだ。文字通り自社工場で解体しているらしい。年も出身都市も関係なしに集まってくる。電視広告のように住み込みたい位である。勿論音と電気を消してだが。食に差別はないのだなと客をしみじみと見遣っていた。

一応造設件数は減少傾向にあるらしいが、今度はゼリー嚥下障害訴訟である。蒟蒻でないのならば、もはや寿命と見做すべきだろう。現場の伴走者は二進も三進も行かれないかもしれない。

呑み込みが悪くなると特別な加工食品が入用になる。つまりエンゲル係数が上がるというわけです。世知辛い。

チャプレン(chaplain)の話もいつかするかもしれない。断じて喜劇王ではない。

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