senryu0021

 

跿跔科頭めける名前や匿流犯


任侠の凋落が目に余る。食い詰めた若造が超楽に稼ぐ方法を思いついたとばかりに種々の詐欺や強盗に手を染めている。男達とは伶仃たるも冷静である事だ。道理に戻った一夜検校は黄梁一炊の夢見心地さえ味わう能わず。暴力は権力者や戦争に向けるから許される。渡世人よ、喧嘩の華を咲かせるならば格好の的が永田町にあるぞ。Y氏の如き誅殺を一度は試してみよ。一人一殺すれば幾らかましになるかもしれない。同情票で圧政が強まる危険性はあるが座して死ぬるよりましかもしれない。

ところで警察官がトクリウなる呼称を付けるとは如何。組対の組織が故障しているかと疑わざるを得ない。響きが也久三好みだと感じなかったのだろうか。F県には実際にそう名乗る極道の会がある。ファジー千万だ。名付け親の管理職は平和ボケしているに違いない。そうでなかったら浅学菲才の謗りを免れない。

扨、荘子や呂氏春秋に盗跖が泥棒の徳を語る部分がある。所謂泗水の学を無頼漢の師帥が反芻して垂示している。「妄りに室中を意りて蔵を中つるは聖なり。入るに先んずるは勇なり。出づるに後るるは義なり。可[否]を知るは知なり。分かつこと均しきは仁なり」 文信侯はこんな論はない方が良いと断じている。一方で南華真経では次のように論じる。最高の知恵は善人にも悪人にも等しく利益があり、また、蠹居棊処のきしょい濁世であるから、儒教の潤す所となるのは畢竟破落戸が第一である。slaughterers(殺戮者) を助長したのは鄒魯だから、「聖人を掊撃し、盗賊を縦舎して而ち天下始めて治まらん」と締めている。

泗洙を死守したのも今は昔。レベル6社会を見渡せば徳が遊泳の術だった時代の終焉が認められる。生き残るのは海月を始めとする浮遊生物ではなくて鯆のような遊泳生物だ。蜉蝣の一期を蠹虫として途中迄過ごして来られたのでこのまま続けられるといいのだが。大道ばかりか仁義が廃れると瀆鎏の族自身が割を食うのに気付いたらと思わずにはいられない。生活に余裕が無ければ食って寝ていれば良い。所詮誰もが行尸走肉(又はphilosophical zombie)に過ぎないのだから。そうすれば好きと得意を再発見できる。最後まで残っていたものだけが重要なのだ。(やけに説教臭い自戒だなあ)

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