haiku0180

 

皺伸ぶる遺賢こそあれ枯柏


柏の木を庭師に整えて頂いた。茂みが兀然たる幹になった。

柏は子孫繁栄と高節の象徴だ。前者は古い葉が新芽を守る様、後者は松柏の操と関係するのだろう。(厳密には松柏は松とコノテガシワだが、混同したのかもしれない。常緑樹じゃないので気付く筈だが。) 縁起の良さを買われたのだろう。

世の中には定年を迎えても勤しむ方がいらっしゃる。日本を支えている人を無みして野に遺賢無しと驕る爪牙の存在は福翁がすゝめでも触れている。そうはなりたくないと思っても想像力と経験の足りない自身を如何ともし難い。恥じるばかりだ。

命長ければ恥多し(原文は寿則多辱)。代々の「君子」が後生大事にしてきた古人の糟粕だ。徒然草にも見える。此処でリテラシーテストだ。この原典の論の展開を予想されたし。その上で南華の天地篇(雑篇の最後の天下篇ではなくて外篇の初めの方。天道篇の前ですよ) を見られたし。大抵の辞典及び網上の記事には割愛している部分がある。(福島県の大先生もだ) 当然教育でも端折られる。屹度厭世観に染まった精々「君子」風情の肝を潰すだろう。顕著な鶱翥をご覧あれ。

補足すると勿論後世の衍文と読む向きもある。神仙思想は厭聞飫聴だと謂う注釈も探せばあるだろう。ただ、残った形そのものを味わっても面白いかもしれない。所詮筌蹄なのだから。

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北京大学の識典古籍が読みやすい。抱朴子や老子議を快適に閲覧した。原典と電子文を比較できるので、岩波文庫や国立国会図書館デジタルコレクションに存在しない漢籍は、インターネットアーカイブや中國哲學書電子化計劃と併せて、楽しむと良い。

レファレンス協同データベースで調べ物の方針を練ると捗る。弊博客に到達なさる諸賢がお知りにならないとは存じませんが念の為。

道家では神人、真人、至人の三者と君子、小人の両者との間には天淵の差がある。聖人は中間だがどちらに含めるかは文脈による。つまり、精々君子とは相当蔑みを込めた表現なのに留意されたい。風情と迄書くバタバタ(追落し)を決めるのは酷だったかもしれない。

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