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言の葉の種を鎖せる唇は凍つる三月が解かすなるべし


先の土曜日に月見の里学遊館でワークショップがあった。伝わらない!を楽しもうとの主題だった。鯫生は意味不通が日常茶飯なのだが、詩形特有の属性が把握出来ていないので参加した。

今回持込んだのは「 vernalise と verbalise は一文字違い」という気付きだ。社交網で流れて来た彼岸花が必ず九月後半に咲くとの話を調べている内に浮かんだ。このアハ体験を大和言葉だけで表現したかった。結構上手に仕上がったと思う。厳密には n は歯茎鼻音なので唇はゆるゆるだが許して頂きたい。きゅっと結ぶ両唇鼻音は m である。序でに b は有声唇歯破裂音との学術語を用いる。

文芸の基本である用意された音の塊を組合わせたり、穴埋めをしたりといった準備体操の後に、歯応えのある鑑賞論を検討した。日本の短詩は伝統的に間主観性が読解の前提で、明治維新頃から戦前までは自意識を確立する事に軸足を移したものの戦後以降また元の様になりつつあるとの話だった。鯫生は近代短歌を je の視点、古典及び現代短歌を on の視点と解釈した。講師が過日示された子規の「われは」連作に対して察知したざらつきが正にこれだろう。刺刺しい自意識過剰性。悠久に胡坐をかいている兼業歌人からすると啄木や晶子の西洋風の声は聞難く感じていた。咀嚼して頂きすっきりした。最後に足早の歌会でお開きになった。共鳴した作品もあったが許可が無いので言及は見送る。

同施設では初めての言語創作活動の催しだったようだ。今後活発になることを期待している。と同時に微力を尽くしたい気持ちも湧いた。実りある時間だった。

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論説を拝聴した際、他にはイメージの力第三回で飯森氏が仰っていた浜辺での対話の譬えも想起された。鯫生のようなすかすかの個人を癒すには明治大正の三十一文字は偉大過ぎるが自分を大切にする人には良い処方なのかも知れない。どちらかと問われると当時の和歌が苦手だった漱石の精神に近いのだ。

口や手の動きが思索の強靭化に資するのならば、毎日戯言を綴っているのにも意義があるのかもしれない。詩歌の現代語訳は基本的に致しませんが。大概言外は存在しないので。精々八百字程度しか膨らまないが、片仮名と繰返しを避けて書連ねるのは訓練になる。

ゴーシチを購おうかと思う。ヤッホホゴリラは手持ちに来なかったが、バトル開始だ!!を引けたので文字通り一粲を博し果せた。

詳細をお求めになるならば主催者の個人網録2025年9月27日の記述に当日配布資料の pdf がございますのでご覧になって下さい。自発的な創造に出会いたい方にも参考になるかと存じます。

余裕があったら氏には古文、漢文、各外国語の講座も開催して頂きたい。公演にも興味がある。今回の演題の敷衍を企佇している。情報社会との付合い方にも造詣が深そうなのでそちらもお聞きしたい。(鯫生は機械音痴。) 但し、惜しまくは自他に自立を期待される士なので権威的な場は持たないだろう事だ。

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