haiku0369
しとしとと響動めく衆や秋祭
今年も旻天の下熱気が駆巡った。漸く静かになった。まあ、退避していたのですがね。祭囃しの転写は厄介な仕事である。時代や個人によって変化する物でもあるからだ。したした、しとした、すちゃすちゃ等とも聞きなせる。今回は誤読を誘発する為に選んだ。
所で、此の句がニュートンの林檎であるとは全く思っていない。誰かしらが先にお詠みになっているだろう。何千人もの脳裏に毎年焼付けられる声が文字に残っていないとは信じられない。草莽の俳聖とお会いし御高説を賜りとうございます。
_/_/_/_/_/
知的財産権は幻想であり不毛である。先ず、先取権を主張出来る程の根拠が無い時が多いのだ。日本の民謡にせよ和歌にせよ、誰が初めて口遊んだのかは同定できない。例えば君が代の短歌を初めて詠じた人は武蔵の国田村の青年が宴席で戯れに作ったのを村長が覚えていた。それを采詩の官が記録して野卑た部分を調えて広めた。こんな次第ではなかろうか。推本溯源は知的好奇心を搔立てるが其れ迄。記録、改良、演奏した数多の人々も原創者以上の価値を認めるのが日本の伝統ではなかったのか。著作権を主張することで文化を育んできた流れが断ち切られてしまっている。大体が過去の功績に胡坐をかくのは風上に置けない。そんな輩に限って自作の改訂をしない。折角の材料を腐らせる羽目になるのだ。これではくりえいたあを名乗らない方が世の中を益するだろう。
では、過去の歌い手はどのように食って来たか。略兼業だったのである。数少ない専門家も周囲の理解や尊敬を受けて必死に執筆を続けたものである。周りを喜ばせたかっただけなのだ。恩に報いたかっただけなのだ。
或いは無形所有物の主張は他人の論を封殺する詭弁であったと反論する方もいらっしゃるだろうから触れておく。今回の拙句は必ず類想と呼ばれるべきであろう。でなかったら、前時代又は同時代の自称第二芸術家者流の目の悉くは節穴であったと結論すべきか。此の類の暴論を誘発するので緘黙させるのを目的として持出すのは賢明とは言難い。畢竟此の卑怯な説は唾棄するに如くは無い。
余談だがブロックチェーンなる技術は上に出した例だと君が代を演奏する前に必ず「武蔵の国田村の青年が宴席で戯れに作ったのを村長が覚えていた。それを采詩の官が記録して野卑た部分を調えて広めた。その短歌に曲を付けたのが某で作曲以来8億2415万935回演奏され延べ300億人の聴衆を楽しませました」云々と説明するようなものだ。実際にはもっと委細である。絵画ならば作品を立体格子に分解してそれぞれの箱の説明を記述するようなものだ。このタッチはいつどんな筆と絵の具によってなされたもので、この汚れは誰によってつけられたもので云々。何せ本体容量が何億倍にも膨上がるのだから。環境と注意力に負荷をかけるだけの弊習だ。
尸位素餐の鯫生が申すでもないですが一応。公共財を享受しているからには殖財に励みたいものだ。
コメント
コメントを投稿